シン・エヴァンゲリオン劇場版の感想【ネタバレあり】
3/8 月 0700 -- 0950 の回で鑑賞。
鑑賞から感想文までしばらく間が空いたが、感想を書くにしても覚悟がいる映画であったのが理由だ。
以下に当日の自分の感想を実況的な表現も混ぜながら、徒然に書いていく。個人の感想であるし、自分より詳しく熱狂的な人が非常に多くいる作品であるので、つたないと思うところもあると思われるだろう。
なにより理由を後述するが、シンエヴァは1回しか見ていないので、記憶がやや怪しい。Qは当日3回みたことを考えると、大きくやる気が減退しているようにも見えるが、わたしはシンエヴァは1回しか見ないと決めている。そのため、かなり記憶に頼った怪しい感想になると思うが、個人ブログなので大目に見て欲しい。
1 冒頭のアマプラ公開分
アマプラで冒頭が公開されているので、劇場で他人の話からネタバレを受けないように気を付けるところからが、今回の干渉のスタートとなった。
結果ノイズキャンセリングイヤホンを持ち込んで大音量で上映開始まで待っていた。
エヴァは非常に多くの人が見る映画なので、上映中におしゃべりする人や、独り言がうるさい人への対策にもなると思い、回り次第で上映中もノイズキャンセリングイヤホンをつける覚悟はあったが、幸運にも上映中にノイズキャンセリング機能を使う必要は訪れなかった。
冒頭の感想に戻る。
まず開幕エッフェル塔で笑いをこらえるところから始まる。
前回のエヴァQでナディアのノーチラス号発進があったので、今回もナディアネタが入ってくるだろうと思っていたところ、始まってすぐ現れたので流石に面白い。
ナディアは第一話がエッフェル塔で、最終決戦もエッフェル塔上空。エッフェル塔に始まりエッフェル塔に終わる作品であったので、なるほど、ナディア最終回からスタートかと思った。
なお、このナディア混じりの感想だが、後にこの時感じた感想が、この映画の感想で本質的なものであったと気づく。伏線として意識してもらいたい。
そしてバトルシーンに入る。スピード感あり、新兵器あり、だが新兵器にエヴァの使徒らしい不気味さもあり。と、映画の出だしとしては無難で、アマプラで公開するのも納得という、「大衆受けする」内容だと思った。
ここの冒頭の戦闘は面白いシーンではあったと今でも思っているが、見たときから、「物足りない」とは思っていた。
わたしはエヴァは細かい設定があるけど、それらを無視して、あえて頭空っぽにして勢いを楽しむ作品で、輪るピングドラムが後の作品だと近いものだと考えている。
雰囲気や勢いを味わう作品だと捉えているものの、今更こんなシンプルな勢いを見せられて完結させられても、今更感だけ残るのではないかという危惧が起こったのである。
これらを思いながら見ていたが、ラストでの違和感がそこまでの不安などを塗りつぶしていった。
マリの、「探し出すよ、ワンコくん」、の違和感がすさまじかったのである。
ここは「探し出すよ」の後に当然「姫」が来るのかと思っていた。マリとシンジは破までで屋上と、ゼルエル襲来以外での接点がないぐらいであるので、Qまでで14年を過ごしたアスカの方がずっとマリにとって大事だと勝手な思い込みがあった。
結果として、この時感じたアスカよりシンジの方が大事なんだろうかという違和感は、この映画の感想で特に大事なものであった。
2 村
Qの続きだとはっきりわかるもの。
この映画でわたしが最も素直に面白さを感じられたのが、村での生活である。
現在の世界の状況、トウジやケンスケたちの現在、シンジや綾波の成長、アスカの現在、などの描写が破での水族館の描写よりずっと上手になっていると思えた。
破のときと比べて、エヴァの各キャラクターだから成り立つような描写が増えていると感じられたのが、大きな理由だと思う。ここは、制作陣の力量が上がっていた結果だと考えており、いまだに力量が上がるというのは頭が下がる思いだと感じる。
田植え場面が浅いのようなコメントを後ほどみて、それはそうだと思うのだが、別に力入れてなくてもいいんじゃないかと思うので、指摘の方が的外れに思える。サクナヒメを見に来たわけではないのだから、よほど制作に余裕がない限りは、力を緩めていい部分だろう。そもそも、わたしは戦闘描写さえもっと手抜いていいと思ったぐらいなので。
とても面白い場面だったが、見る上で気になったのは2つ。
・ケンケン
みんながすぐ気になった所だろう。アスカとケンスケがやけに親しげ。14年の間に親しくなった設定が急に現れて流石に驚いた。だが、見ている上では、現実で連絡を取っていない女性が気が付いたら知らない男と親しくなっていたというパターンはよくある話なので、むしろリアリティを感じてしまって、なるほど、そうきたか。というのがこのときの感想だった。
・綾波タイプがどうの
アスカが綾波に、好意を持つのは綾波タイプの特性という突っっ込みをしていたところ。やけにドライで事実を淡々と述べている印象を受けた。
破の時点でのQの予告とも合わせて、アスカの態度にだいぶ違和感を覚えてしまって、このアスカが破のアスカと同一タイプでないのではないか?という疑いをここで持った。
破のアスカはシンジに好意を持っていそうな描写であったが、アスカもタイプが変わっているのなら、シンジへの興味がなくなっていてもより自然となろう。
だが、Qからの眼帯がバルディエルに取り込まれた後だからこそだとも思ったので、考えただけですぐに没になった考えだった。
とはいえ、このときに「アスカが別人になっているのではないか?」という違和感を覚えたことは振り返って見ても間違った感覚ではないと思っている。14年の歳月でアスカが大人になったというより、これまでのエヴァで知っているアスカと別人になったような違和感を覚えたからこそ、別個体になったのではないかという疑問が生まれたのだと、今は思っている。
3 戦艦から初号機搭乗直前まで
今回のエヴァで最もつまらない所だった。朝早かったこともあり、つまらなすぎて寝る危険さえあった。
スーパー戦艦大戦とスーパーエヴァ大戦が勃発したが、絵はキレイだったとしても、演出も爽快感も過去作に比べて優れていると思えなかった。
例えば、ガンバスターのバスタービームで敵を薙ぎ払うところや、ナディアのノーチラス号の戦闘に比べると、1つ1つがとても安っぽく見えた。
この場面はミサトがQで下げた株を戻そうとする意志も感じたこともあり、全体的に、
「シンエヴァがエヴァを知らない人にも受け入れられるように、単体のエンターテイメントとしての体を保つために作った場面」
という感想がとても強い。見ながらもそう思ったのだが、単体のエンターテイメントして面白いかそもそも疑問になるクオリティだと思ったので、このまま終わるなら、シンエヴァは見た人からボコボコに叩かれて終わるだけだろうと、不安な気持ちいっぱいで見ていた。
自分は古くからのファンなために、どんな終わり方でもやってくれるだけで満足なのだが、ここまで注目度が上がると、そういうわけではない鑑賞者の方が大多数派だろう。
後から聞くと、自分の想像よりは、エヴァを知らない人に受け入れられた場面であったらしい。エヴァは基本的に細かいことを考えず勢いだけで見るのが面白いと思っているのだが、このシーンも勢いだけで楽しむようにすれば予備知識が少ない人でも十分楽しめたのだろうか。
ガフの扉ってなんやねんとか考え始めたら異常につまらなくなると思うのだが、そのような感想が見える範囲で少ないのは、安心できた。
4 初号機搭乗から最後まで
ミサトが「シンジくん生きてー!」とレバーを倒してネモ船長のオマージュをするのをちょっと期待したが、それは現れなかった。
シンジのシンクロ率が無限大と0を同一視していたところが、やけに面白く感じられた。
大学の体論のゼミで、体の標数を聞かれた人がパニックになり、「無限大」と答えたときに、担当のチューターが意味不明という顔をした後に。「ああ、無限と0を同一視したのね、合ってます」って答えたときを即座に思い出した。
その後、補完計画に入ってゲンドウとの対峙を迎える。
ここで思っていたことは、なるほど、これが今回のエヴァの終わり方か。ということである。
旧劇を思い出しながら見ていたわけだが、旧劇はせっかく初号機に乗ったものの、初号機の操縦が結末に影響することもない。それが、シンエヴァだと、能動的にシンジが初号機に乗り、操縦が結末に影響するような形を描こうとしていると解釈できた。
わたしは旧劇について、せっかくシンジが初号機に乗ってもシンジの操縦が結末に影響しない所が、最もよくない所だと以前から思っていた。そのため、今回の変更については大変好感を持てた。
が、誰でも思いつけるような、大衆受けする変更でもあるので、今回のシンエヴァが大衆受けする無難な中身のない作品に帰結する危険も多く感じ、継続して不安を覚えながら見ることになる。
そして、ゲンドウとの対峙に至る。
13号機と初号機の対決ははっきりいってつまらないと思う人が多い演出だろうが、わたしはここがつまらない演出で、見ながら心底安心した。
大衆受けを狙いすぎたつまらないエヴァになることを危惧してみていたので、当然である。この演出をみて、シンエヴァはまだ何かあると強い期待を持て、眠気が一気に覚めたことを鮮明に覚えている。
そしてゲンドウとの邂逅ともいうべき場面に至る。
ここで、ゲンドウとの邂逅の場面を見て、ようやくわたしは今回のシンエヴァが、これまでのエヴァの度合いをはるかに超えた、庵野監督の私小説の成分がたいへん濃い映画であると気づけた。
エヴァ自身が私小説の色合いがこいからいまさら何をとも思われうる感想であるが、これまでのエヴァと比べものにならないぐらいに、私小説の割合が濃い作品だと感じられた。
ゲンドウとの邂逅のシーンを経てわたしは、今まで自分たちが見ていたものがエヴァではなく、エヴァのキャラクターが演じる私小説であるとまで思えた。
そうしてこれまでの場面が脳裏によぎると、すべてがつながって解釈できた。映画を見ながら最後に種明かしがあるということで、シンエヴァのジャンルはまさに「ミステリ」に分類されるものだろう。見る人がミステリという認識を持たないままミステリ映画であるということさえが謎の一部であるミステリ映画、そういう仕組みであることに気づいた時には、あまりのシンエヴァへの感動に胸が震えた。
そこから先は、タネがわかるとすべてが納得いく描写であり、それでいて完璧な描写を前に、感動しながら映画が終わっていった。
一度しか見ていないのでうろ覚えだが、カヲルについての話などは、「これエヴァじゃないから設定とかの細かい話はもはやどうでもいい」という気持ちで、逆に頭に入らなかった。
なんにつけても、シンエヴァという作品を見て本当によかったと思えた。
が、わたしが最も評価が高いのはミステリ的な構成部分にあったので、大衆受けするかどうかは非常に怪しいとも思えた。
今回のシンエヴァについては、ミステリ映画であるというのが絶対にネタバレしてはいけないことだと思ったので、とにかくその部分については絶対つぶやかないように気を付けるとともに、謎の部分を絶対ばらさないようにも気を付けた。
が、ツイッターなどを見る限りでは、見てもいないのにどうでもいいところのネタバレをネタバレと思い、肝心な部分のネタバレを感想と思って済ませる人が多く、かなり扱いの難しい作品と思ったものだ。
逆に見ていた人は、ミステリ映画を見てネタバレしない感想をどう話すかを配慮している人が周りには多かった。シンエヴァへの感性が近い人が回りに多かったのは今回本当に自分が幸福であったと感じた。
5 ゲンドウとの邂逅後の感想の補完
ここで、ミステリの謎を開示された後の、感想編にうつる。
・私小説の度合いが色濃かった理由
風立ちぬが公開された理由が特に大きかったと考えている。
これまでも私小説の色があったエヴァだが、風立ちぬにより庵野監督自身が新たな境地にいたり、作ったのがシンエヴァであったと考えている。
もし庵野監督がこれからも創作を続けられるのであれば、新しい境地に至った庵野2とでもいうべき境地での作品になるのではないかと期待をしている。
シンエヴァという作品に監督のこれまでの様々なものが詰まっているのを感じ、シンエヴァはいわばエヴァの監督としての庵野監督の葬式であったという感想に至った。
わたしの中でシンエヴァをもってエヴァの監督の庵野監督は看取った気持ちになったので、葬式に何度も出席するのは大変無粋だと思ったので、1度しか見ないことに決めてしまった。
シンエヴァは最後にすべてのエヴァの最終回ともいうべき形でも終わったので、自分の中でエヴァという作品自体が、鑑賞によって死んだ感覚が強い。
この感想記事についても、いわば通夜での個人の思い出話に近いものだろう。
・アスカ、マリ
アスカとマリについては、この映画にエヴァのアスカとマリは出演していなかったのだと判断をしている。マリについては貞本版の最終巻で、天才少女でLGBTで碇ユイに好意を持っているような描写があったが、シンエヴァと同一人物と解釈するのはわたしはにはできなかった。
この映画のアスカは、宮村優子であり、マリは安野モヨコだったと考える。
そのように考えると大体の納得がわたしはいく。特にアスカがケンスケをケンケンといい、親しげにする描写は完璧だ。エヴァに思い入れがあり、見に来たファンのうち、一定数が、アスカが脇役にとられたというモヤモヤした思いを描くだろう。
これは、(ソースがないので都市伝説に過ぎない可能性もあるが)有名な話である、庵野監督が宮村優子に振られているという体験を、鑑賞者に追体験させるための演出であると考える。
少しでもアスカがケンスケに取られたような感情を描いたら、それはもう演出にはまっていたのだ。
そしてマリ=安野モヨコは、作品外の世界からやってきて、エヴァから監督を救い出したという演出であると考える。
とはいえ、この構想がいつからあったかはわからない。おそらく風立ちぬ後にここまで極端な私小説化を決定したものだとわたしは予想している。そうでなければ、貞本漫画の最終巻でマリを登場させたりはしないだろう。
だが、マリが最初にシンジを意識した発言をし、最後にシンジを駅から連れ出したのは、私小説としてエヴァから監督を助けたという演出において、文句なしの満点であると考えている。
特に反対側のホームのレイたちは、劇場版のタッチから異なり、コンビニやUCCのグッズと同じタッチで描かれており、なんなら既存絵で見た覚えがある(これはソースが家のグッズを見ても見つからなかったので存在しない)。
既存グッズと同じタッチで描かれたキャラは創作物としてのエヴァを象徴し、創作物としてのエヴァとお別れを告げ、現実に連れ出すのがマリなのだろう。
また、劇中でアスカとマリが死に装束に身を包むが、これはこの作品がエヴァの葬式であり、庵野監督の葬式でもあると考えると、登場人物の中でも特異な役割を果たすこの2名が死に装束に身を包むのにも納得がいったものだ。
・綾波
過去にアスカ、綾波どっちがいいかという派閥論争があったことを、見終わった後に思い出した。そして、
が、役割だと、シンエヴァを観て自分の中で整理がついた。MAGIシステムではないが、どちらもエヴァを象る大事な要素である上に、ベクトルが全く違う。
それだけに、どちらが好みかという話題にしやすいとともに、お互いの主張が交わりづらくなっていたのだろう。
・補完計画
ようやくラスト近辺の話に戻る。
まどかマギカのようなエンディングだと思った後に、すぐ、そもそも旧劇、はてまたイデオンに近い終わり方だから、最終結論は旧劇とまったくかわってないことに気づいた。
創作物としてみると旧劇の最後と同じ終わり方を新劇でもしているので、本当はみんな知ってる終わり方をしているだけで、特に話題にさえする必要がないラストであると考える。
ただ、過程が全然違うので、旧劇を見た人にも新鮮な感覚を覚えさえ、それどころか終わり方が違うような錯覚さえ与えるのではないだろうか。
旧劇ではシンジが能動的に動くことなく補完計画が始まった。そして、ガイナックス本社への落書きなども実写で現れオタクそのものへの嫌悪からのエヴァからの脱却を描いた印象がある。
しかし、今回はシンジが能動的に動くとともに、オタク批判ではなく、アスカがケンスケに取られることや、ゲンドウの邂逅などを通じて、庵野監督自身の弱さを経てエヴァからの脱却をし、更に最後にマリによる救済も与えられている。
同じ終わり方でもここまで過程が違うのかと思わされるような、文句なしのハッピーエンドである。
同じ結論をここまで過程を美しく作り直せるのかと、監督自身の技量、そして心境の変化を観ながら感じ取ることが出来た。
そういう意味では、イデオンのTV版ラストと、発動編のラストが近いものがあり、見終わった後はイデオンを観たときも類似する感想で連想された。
トップをねらえのアイキャッチはイデオン意識をしたものであるし、補完計画も、実写の挿入もイデオンとかなり類似するものなので、イデオンの発動編はどうしても思い出してしまった。
わたしとしては文句なしなのだが、イデオン発動編という太古のアニメが引き合いになるぐらいであるので、創作物としてみて目新しいものではなかったといえる。そのため、私小説部分の評価が高くない人がシンエヴァを評価しなくても、仕方ないと思える。
この感想はそういった人に、なぜシンエヴァが最高の作品なのかを解説するような意図も多少こめて書いてもいる。
・他作品
シンクロ率やカヲルで、やたら始まり=終わりという描写があったが、これはナディアの、第一話がエッフェル塔で、最終決戦がエッフェル塔だったことを強く思い出させるものであった。このときから、始まりと終わりが同じというのは、意識された演出だったのだろう。
思えば旧劇も「夢の終わりは現実の始まり」など、終わりと始まりの同一視は目立ったので、これは作風の一つといっていいだろう。
旧版の第一の使徒については旧劇後にいくつかの感想を眺めたものの、答えはわからないなぁと思っていたが、今回、そのうちの予想の1つが当たっていたことを確認できた。
が、これも、作風を理解していたら予想できることなので、自分自身の浅慮から気づけなかったというべきものだろう。
また、シンエヴァを観た後に最も見て欲しい作品が、トップをねらえの1、2である。合体劇場版ではなく、OVAでフルで見て欲しい。
トップをねらえ2の最終話のタイトルは
であり、これだけでだいたい言いたいことは分かるのではないだろうか。エヴァの最後の否定を肯定にしたらこうなるのではないかと、見直しながら思えた。
6 終わり
以上で本記事は終わる。1回しか見ていないために怪しい記憶が多いような感想記事で、その上8000文字近い分量になっているので、最後まで付き合ってくれたかたには感謝が絶えない。
より洗練するためには複数回シンエヴァを鑑賞する必要があるが、途中で書いた通り、自分の中でのエヴァ監督としての庵野監督の葬式がこの映画で、葬式に何度も顔を出すのが無粋だという思いが強いので、この記事をこれ以上洗練することは出来ないだろう。
そのため浅い内容になっているものを世に出しているという申し訳のなさもあるが、長い間ファンを続けていたエヴァの、最終作への思いはこれで十分に吐き出せて、すっきりした気持ちだ。
さようならエヴァンゲリオンという、というお別れで締めて終わりにしよう。