評価指標としての年収

日本では根深い年収信仰があるという話はたびたび目にする(本当は統計を取って他国と比べて検定をとらないと結論できないので、妄想であることには注意)

 

年収は果たして意味のある評価指標なのだろうか。

 

真面目に考えてみよう。

 

 

まず、年収の定式化から考えよう。個人個人について年収を比較する文脈で使うのなら、ある人 x の年収は、f(x) で与えられると定式化するのがふつうである。

 

とはいえ、年収には時間変動要素がある。 時間を加えて、ある時刻t での人間 x の年収が、f(x,t) で与えられるとしよう。このf(x,t)を、年収関数と呼称する。

 

ただ、まだ曖昧なので、このf(x,t)は、「時刻tにおける昨年度の年収実績」ときちんと定義しよう。当年度における年収は未来の情報を含むことになり、昨年度の実績の方が評価指標として優れているからだ。

 

 

未来の年収について定義するのなら、それは関数ではなく、確率過程である。f(x,t,ω) とでも表記するのが正式な記法だ。

 

すこし脱線するが、確率過程として定義する場合は、ときたま見る「フリーランスは正社員より割りがいい」のような思考が、物事の一面しか見ていないことが明確になる。

 

正社員は一般的に年収のブレが少ないので、f(x,t,ω) の分散が小さい

フリーランスは一般的に正社員よりf(x,t,w) の分散が大きいだろう。

 

ある人xを固定して、正社員の場合の年収関数をf(t, ω)、フリーランスの場合の年収関数をg(t,ω) とする。人 x を固定しているので x は関数表示からは省いている。

 

f(t , ω) の期待値 < g(t,ω) の期待値

 

となっているからg(t,ω) の方が優れているというのは物事の一面しか見ていない。

 

f(t,ω) の分散 < g(t,ω) の分散

 

となっているから、f(t,ω)の方が優れているということが容易だからである。

 

数式を使うと、だれだれの主張はこのようなことを主張していて、それに対してはこのような反論があると明確にいいやすいということも見て取れるだろう。

 

話を戻そう。

 

個人個人に対して、年収関数を定義するとなると、なぜ定義したのかを明確にする必要がある。

 

このような評価指標を持ち出すとすると、意義は次の3つが代表となるだろう。

 

1.比較可能性をつくるため

2.特定の計算のための補助に必要なため

3.最大化する対象として設定するため

 

順に解説しよう。

 

1.比較可能性

 

物理のジュールや、化学のモルに代表される用途である。

投げたボールと、電気を蓄えた回路でどっちがすごい?と聞かれても、なにいってるんだ、そんなの比べようがないだろうと思う人が多いだろう。

 

しかし、ジュールという単位を持ち出すことで、両方のエネルギーを考えることで、比較して「どっちがすごい」か結論をすることが出来る。

 

 

そのため、例えば年収関数を用いることで、「野球選手xとサッカー選手yどっちがすごい?」という質問に対して、「f(x,t)とg(y,t)を比べて結論を出す」ということが出来るようになる。

 

年収は万人に対して定義できる指標であるため、確かにだれでも比較できることは利点だろう。

 

万人に対して評価できる指標というのが貴重であることは間違いないので、年収は個人個人の比較の際に使いやすい指標であるということも間違いない。

 

だが、そもそも年収はただの評価指標であるので、本来は別の評価指標がないかを考えるべきである。

 

年収以外にもっといい評価指標が使えるときには、使うべきではない。

 

例えば野球でいうと、どれだけチームへ勝利数をプラスしたかを表す、WARという指標がある。野球選手xと野球選手zの比較ならば、年収よりも、WARで比較した方が、直接その人の直近の活躍が評価できる。実際、選手の評価では年収よりもWAR、そのほかの実際の試合から算出する指標が使われることが多いだろう。

 

全く業態の違う個人をどうしても比較したくなった時にも年収は使えるが、比較したい人同士に共通する別の具体性のある評価指標があるとすると、そちらを用いる方がよいことが多いと予想している。

 

2.計算の補助

 

例えば、年収の1割を貯金に回して、家の頭金である500万円を集めるというケースを考えよう。

 

この場合は、f(x,t)を0からTまで積分して、500万円を超えるようなTの下限をT* とおいて、T* について評価することになる。

 

だが、T'を最小にする問題は、f(x,t) の最大化と同じ問題なので、年収関数の最大化に帰着する。

 

さて、ここで安直にf(x,t) の最大化を目的とすることがいいとは思わない。元々の目的は、T* の最小化であり、T* を最小化する計算で出てくるのが、f(x,t)の最大化だからである。f(x,t)の背景の、本来の最小化する関数が、年収という文脈だけでは読み取れないところが気持ち悪いと考えている。

 

ここで書いてあることに対して身近な表現を使うと、「そんなに稼いでなにに使うのか」である

 

 

3.最適化問題の対象

 

個々人が行動する際には、何かしらの指針があるほうが動きやすいだろう。そこで、年収関数を用いて、

 

f(x,t) の最大化

(制約条件:今までのxの人生)

 

という数理最適化問題に自らの行動を定式化するという文脈である。

 

この文脈での評価指標としての年収は、最もくだらないものである。

 

なぜなら、個々人で制約条件が違うので、制約条件の異なる数理最適化問題のアウトプットを比べる意義が怪しいからだ。

そもそも、他の人が年収関数の最大化を目標に動いているとは全く限らないので、比較する「目的」がここには存在しない。あるとしたら、最適化を行った人が、最適化を行っていない人の年収を確認して、自らの最適化の成果を確認するという程度であろう。

 

だが、それさえも、他者が最適化を行った場合の指標を確認しないことには意義が薄いといえる。

 

個人が最適化問題を解いて自らの行動を決定する際の指標としては、最適化問題の指標としての年収は使える。しかしこの文脈の年収は絶対的な最大化をする対象であるので、比較するのは他人ではなく、自分自身なのである。

 

 

ここまでに簡単に三つの要素を述べた。まとめると、

 

1 万人が持つ指標なので他人との比較で必ず利用できる

2 利用することで一部の最適化問題を数式に載せることが出来る

3 最適化問題の対象となりえる

 

である

 

これらは互いに関係している事柄であり、独立ではない。

 

評価指標としての年収は、自身の行動の最適化の定式化として利用する指標であり、他者との比較で必ず使える指標なのである。

これは一見年収が万能な指標であるように見える。

 

しかし、

・自分自身で最適化の目的関数に設定できる、絶対的対象である

・他人との比較に必ず使える強い相対性が利点である

 

となっていて、強い相対性が、最適化行動の目的関数となり得ることとかみ合っていないことに注目したいところである。

 

つまり、強い相対性を持っていたとしても、その相対性が実際の最適化において関連性を持っていないのだ

 

そのため、あくまで個人個人が最大化する目的関数として意識する分には有用なのだが、誰とでも比較可能な強い相対性は、業態の違うもの同士を無理やり比較するという極限られたケースでしか利用できないことに注意がいる。それも、制約条件の近い比較者同士がともに年収の最適化を行っていない限りは、アルゴリズムの良しあしが判定できないので、意味を持たない。

 

スポーツ選手は一般にパフォーマンスと年収の関係が深いはずなので、パフォーマンスの最大限の発揮がそのまま年収の最適化になり、年収の比較が最も意味のある例となるだろう。

 

あくまで年収というのは個人個人と時刻に対応してる2変数関数の評価指標に過ぎないので、適切な文脈で用いる必要がある。絶対的な文脈でみずからが用いているか、相対的な文脈で用いているかの意識を持ちながら利用しなければならないという、やや難しめの指標であるということだ。

 

そして、評価指標としての文脈で用いた場合、なんのためにこの評価指標を持ち出したのかも、意識しないと当然意味がない。「誤用」が多い評価指標であるといえよう。

 

年収と近い指標は、おそらくテレビの視聴率ではないだろうか。これらはともになんでも比較出来て便利という特長がある。しかし、視聴率はもっとよい指標がないかとずっといわれつづけている指標である。どのようなものについても定義できる指標というのは、定義域を広くしたせいで、算出に利用する変数がごく一部に限られていて、比較が必ずしも意味を持たない。

 

年収の一番の存在意義は、評価指標の捉え方をわれわれに教えてくれることもかもしれない、