面白さとは味覚である

とてもつまらない映画が今公開されているらしく、それに関連した話題。

 

面白い・つまらない、といった一般論に対する自分の価値観である

 

 

かなり昔にSNSで流れてきてなるほどと思った話がある。

 

それは、

 

「舌が肥えている人とは、高くておいしいものだけ食べる人ではなく、多くのものを食べておいしいと思える人ではないか」

 

というものである。

わかりやすく説明するために、今回よく使う例として、コーヒーを挙げよう

 

・ブラック

・砂糖入り

・ミルク入り

 

という3つがあるとする。

 

どれか1つではなく、3つとも美味しいと思える人が、コーヒー通により近いといえるであろうという考えである。

 

これは、最初からおいしいと思える必要はなく、味を理解するための練習や工夫などを経て、おいしいと感じられるようになるので十分である。

 

むしろ、味覚は最初は我慢から入っても練習することでおいしく感じられるようになれるものが増えるので、練習しておいしいと思える範囲を増やした人が「食通」「舌が肥えた人」となると捉えて問題ないだろうとも思っている。

 

 

自分を例にしても、ピーマンが子供のころ嫌いだったのが、いつの間にか食べてもおいしいと思えるようになっていた。これが、ピーマンに対して、舌が肥えたということであろう。

 

これを更に推し進めて知っている食通の人を例に出すと、おいしいと感じられるものが多いが、加えて、「だいたい2000円ぐらいの店と同じぐらいのおいしさだ」と相対的な位置づけを評価することができる。

 

・おいしいと思える範囲が広い

・わけへだてなく広いレンジのものを食べていることで、相対的な位置づけを認識できる

 

この2つが、わたしが定義する食通である。

 

わたしの考えは、以上の味覚の話が、様々なものに適用できるだろうという話である。具体的には、

 

・映画

・漫画

・ゲーム

・音楽

・その他何でも

 

で味覚と同様のことがいえるだろうということである。

 

映画の4割を楽しめる人と、映画の9割を楽しめる人であったら、9割楽しめる人のほうが映画通。ゲームでも同様ということである。

 

別の見方をすると、ある人がゲームA,B,Cの評価を、

 

A 40点

B 60点

C 80点

 

と評価したとする。これは、ゲームA,B,Cの「面白さ」がそれぞれこの点数と解釈するのは本当は違うのではないかという提言である。

 

正しくは、ゲームA,B,Cの面白さはすべて元々は100点(100点、200点、300点である可能性もここでは否定しない)で、そのうち、自分が引き出せた度合いが点数となって表れたと解釈しようということだ。

つまり、ゲームにつけられた点数は、実はゲームではなく遊び手側につけられた点数といえるのではないかということである。

 

そして、味覚と対応して、「ゲーム通」の定義をすると、

 

・様々なゲームを面白いと思える

・メジャーからマイナーまで幅広いゲームを遊ぶことで、相対的な位置づけを認識できる

 

この2つを満たすことが「ゲーム通」の定義となる。

 

わたしは、味覚と映画やゲームを面白いと感じる感性が同一だとここまで述べてきたが、決定的な違いも存在する。

 

それは、トータルの摂取回数である。

 

食事はそれ以外のものと比べて摂取回数がぶっちぎりで多い。そのため、体で覚えて評価することができる。映画やゲームはそうとはいえず、ほとんどの人が食事でいうと「偏食」のように摂取回数が足りない状態であると捉えている。

 

結果、

 

・様々な映画を面白いと思える

 

の要件を満たすことの難易度が高くなっており、味覚との類似性に気づきにくい状況になるのだろうとも考えている。

 

実際映画やゲームを片っ端からふれて味わおうという気力のある人はほとんどいないだろう。そこで、既存の映画通やゲーム通の人のそれぞれを「楽しむコツ」というのを参照することでのショートカットが有効となる。通の人のレビューには、ノウハウの拡散という側面もあるのである。

 

自分のゲームのレビューでいうと、アトラスのRPG、特に真女神転生4を例に挙げよう。未プレイ者にもわかるように説明は行う。

 

このゲームの高難易度は地上に降りるまでは一手一手考えて進めないとボスに勝てない、パズルのような難しさで、非常にやっていて面白かった。

 

が、地上に降りた後は自パーティの強くなり方が敵の強くなり方を大きく上回ってしまって、前半の面白さを期待していたら後半は微妙にも感じられた。

 

とはいえ、アトラスのRPGは他の新世界樹の迷宮4などでも感じられたことなのだが、前半は育成自由度が低い分難しいが、後半は育成自由度が高く自パーティが強くなって難易度が落ちる傾向があると思えていた。

 

なので、最初から

 

・前半は難しいRPGとして遊ぶ

・後半は自軍が強い爽快感のあるRPGとして遊ぶ。または意図的に育成を抑えて難しさを保つ

 

ゲームであると思って遊ぶと、ネガティブな気持ちを持たずに戦闘が楽しく味わえる。

 

ドラクエも似たようなところがあり、

 

・雑魚戦を全スキップしてもボスが難しいパズルをこなすと勝てるように作られている

・雑魚戦をちゃんと行ったりカジノを使うと爽快感のある戦闘が楽しめるようになっている

 

と、プレイスタイルで難易度をプレイヤーがコントロールすることができる。

わたしはこのプレイスタイルでの主体的な難易度コントロールこそがドラクエだ大衆に受け入れられる本質に繋がると解釈している。

 

ここまで、ゲームを例にしてみたが、さらに踏み込んで、「面白い」の議論をしてみよう。

 

上記の例において、

 

・パズル的な難易度のある戦闘

・簡単で爽快感のある戦闘

 

はどちらも面白さにつながる要素である。しかし、これらは相反するものであり、片方を期待した人が逆側の面白さしか体験できなかったら、往々にしてつまらないという評価にもなるのではないだろうか。

 

「つまらない」がある面白さの反対側にあるものだと考えると、それは相反する面白さに近いものともなるのである。

 

最近では、ポケモンBDSPが、バグが非常に多いと話題になっていたが、バグを利用して楽しんでる人も多くいたのが例で挙げられるであろうか。

 

 

わたしから見ると、「つまらない」「クソ」といった感想は、味覚での「この食べ物は苦い」「渋い」といった、一定の経験を得ないとおいしいと思えないものとほぼ同一の感想であり、「この映画はつまらない」は、「このコーヒーがとても苦い」と大差ない感想なのだ。

だが、それもあらかじめ、「コーヒーの苦みを楽しもう」と思って味わえば楽しみに変わるのと同様に、きちんと楽しめるものだとわたしは捉えている。なので、「つまらない」「クソ」といった感想は、わたしの視点だとネガティブな感想と必ずしも一致しない。苦味も楽しんで映画やゲームを摂取できる人が、わたしがなりたいものであるといえ、だから詰まらない映画やクソゲーも(面白い映画や神ゲーと合わせて)ある程度遊んでみたいと思えている。

 

だが、食べ物でどうしても人によって苦手で食べられないものがあるのと同様に、どうしても楽しめない映画やゲームも存在するだろう。

 

例えば、FF7Rは面白さはわかるのだが、わたしは地下鉄道周辺があまりにも好みから外れていて、そこでギブアップしてしまった。

 

・地下の鉄道を抜けた先に大きなドアがある

・開けるためには、向こうに見える制御室に行く必要がある

・制御室に行ったらスイッチがオンになったので向こうに見えるスイッチを押す必要がある

・ドアが開いたのでドアの位置に戻って進めるよ

 

という展開が完全に耐えられなかった。

 

とはいえ、こういった展開が全く気にならない人になら、面白いと思えるのは理解できる。そのため、FF7Rは、以上の展開が気にならない人になら面白い。そうじゃないならお勧めできない可能性がある。とレビューをしている。

 

戦闘がつまらないという意見も見えるが、幸い難易度や形式が変更できるので、割り切って戦闘難易度を一番下まで下げて添え物にまで落とすことができる。面白いと思った人は普通に戦闘をすればいいので、戦闘については各自で楽しめる水準まで調整できるよい設計であるともいえるだろう。

 

また、グラフィックやキャラクターなどは文句なしによいゲームなので、今はsteam版で様々なmodを利用して、着せ替えなども楽しめるようにするのがもっともよいFF7Rの楽しみ方だと思えている。

 

話が多少それたが、どうしても楽しめない要素があるのを無理に楽しむ必要がないとも思っているということである。ただわたしはその際は、not for me というあいまいな表現でなく、明確にこの要素が自分に合わなかったが、ここは面白かったという発信をした方が見る側の参考になると思っている。

 

再び味覚に戻ると、わたしから見るとFF7Rの上記のだめなポイントは、「この料理はトマトが入っていたがトマトが大嫌いなので無理だった」と同一なのだ。そして、not for me は、「この料理は好みのものでなかった」と同一であると思えて、「トマトが嫌い」と明記した方がいっそ誠実であるとわたしは捉えているということである。

 

だが、味覚と比べてトータルの摂取回数が少ない映画やゲームは、「苦い」「トマトが嫌いで食べられない」といった感想を個人の感覚や人それぞれ色々あるという受け取り方をするのにハードルがあり、「苦味がある」はネガティブな感想の一種だと捉える人が多いように感じられている。

 

苦いのが好きな人やトマトがどうしても食べられない人がいるというのはもうどうしようもないことなので、あまり目くじらを立てず、「この映画は苦いという情報が得られた」「このゲームはトマトが入っているという情報が得られた」ぐらいの達観した見方が精神衛生的にも、視野の広げ方的にもいいのではないかとわたしは捉えている。

 

そして、たまには、「これまで苦い映画を食べたことがあまりなかったので、たまには食べてみるか」と、味覚を広げることに興味持つきっかけにできると、いいのではないだろうか。

 

以上が面白さについての私見である。

 

ここまで記事を書き終えたので、話題のおおもとになった「怪獣の落とし物」を見に行く会をこれからスケジュールしようと思っている。大変に「苦い」映画であるらしいので、どの程度苦いのかとても楽しみである。