努力はできるだけで天才

ここしばらくで、自分の努力というものへの見方が変わったので、どのように変わったのか記す

 

 

大学受験を例にすると、基本的には努力をすることが前提で、努力した人同士で努力の質や、その人のもともとの力(才能)で差が生まれて結果に差異ができるような価値観で自分は生きてきた。また、ゲームの大会などでも同様にとらえて矛盾が起きてこなかった。

 

だが、ここ数年でこの価値観はおそらく物事の一部しかとらえられていなかったんだろうと気付き、更新するに至った。

 

間違った努力は平気で裏切るというのは有名アスリートの有名なセリフだが、それ以前の問題で、世の中には「努力が全くできない人」というのが多数存在する。特に、本人に全く自覚がないだけで、努力が全く実はできないという人もかなり多い。というのが今回の更新内容である。

 

大学受験の例に戻ると、努力している人同士が鎬を削っている裏で、その何倍も、勉強しようとして一切努力できない人がいたのだと今更ながら気づけたのである。

 

よく、努力は誰にでもできるなどというし、格闘ゲームの動画などでは「コンボは練習すればだれでもできるんだからやった方がいい」のような発言もよく見る。

 

だがこれらはおそらく間違っていて、努力できる側の人からは恐らく信じられないことだろうが、やろうと思っても努力が全くできない人は世の中には多い。

また、コンボを練習すればだれでもできるが正しくても、コンボ練習を実際に行えるだけで、そのゲームについてきわめて才能があるといってもおそらく問題がないのだろうとも捉えている。

 

ここまで、努力ができるだけで選ばれた一部の人であるという表現をしているが、補足も指定校。

 

努力ができない人が多いと述べているが、「Aについては全く努力できないがBについては努力できる」「他については努力できないがCについては努力できる」という人もかなりの割合存在するだろうと仮説を立てていて、努力ができない人の中にも、適性の合うものに出会うことで努力ができる人も多いだろうと考えている。

 

わたしにしても、苦手な球技の努力をしろと言われても、自発的にやるのは無理で、かなりの強制力を持たせないと無理だろう。そもそも、強制力を持たされてさえ無理で、逃げ出す可能性も十分にある。

 

この努力できることが十分に誇れる才能であるという価値観に立つと、ある人が向いている or 才能がある分野とは、その人が努力できる分野に他ならないという結論に至れる。

 

これは自分に向いているものを見つけるや、自分がやりたいことをみつけるはそのまま、努力できるかどうかで測れるということの再確認といっていい。

 

今更こんなことに気づいたのは、わたしは必要なものについては自発的な努力はこれまで厭わずできてきたし、周りの人もそういう人が多かった。そして、それが当然だと思っていたので、努力をしない人は怠惰であるという認識さえ持っていた。

 

しかし、これがおそらくのところ誤りで、努力ができない人を低く見るのではなく、それが普通で、努力できる人は「努力」という能力が十分高い人であるという価値観に更新したということだ。

 

改めてそう捉えるといろいろ納得いく解釈ができるものもある

 

大学受験はその人が努力できたということの証であるので、努力ができることの保証として価値があると捉えると、十分に参考になる指標であるといえる。

大学に限らず、なにかのスポーツで結果を出せた人、なにかのゲームで結果を出せた人は、努力をすることができる人であり、等しくその人の価値を保証するものだろう。

 

さて、努力の中にも、自発的努力と他者から強制される努力がある。努力ができるかどうかは、

 

高 自発的な努力ができる

中 強制されて努力ができる

低 何が何だろうと努力ができない

 

の3段階にわけられ、努力の質として

 

高 適切な考察をすることで質の高い努力

中 質が高いとは言えないが着実に前進する努力

低 進歩が極めて遅い努力

 

の3つに大きく分けられるだろう。つまり、努力can or cant の高中低の3段階評価で、高に該当するものを探して、該当する者のうちで質も高に該当するものを探していくのが、その人にとって向いていることを探す自分探しになるだろうと今は捉えている。

 

よく向き不向きというのはあるが、それは努力できるかどうかと、質の高い努力ができるかどうかの2面から判断されるものであろうということである。

 

最初に戻ると、これまでの自分は努力の質に関しては十分な審美眼を持っていたつもりだったが、努力の可否について、全く努力できない人も相当数いるということを見逃していたということだ。

 

まとめてみると当たり前のことのようだが、努力ができる人と全くできない人にはかなり価値観に溝があり、お互い交流しても本質的な差があることを認識しづらく、これまで気づけなかったのではないかと自己分析している。

 

とはいえ、努力ができない人のことを怠惰と思うのではなく、人間なんてそもそもそういう人が多数なんだと認識を改めることで以前より視野が広がった実感もある。

 

これを生かして、人に話すときは努力ができる前提で話さないといったことや、自分自身が努力を怠ったときに寛容な心で許す気持ちや、逆に自分でも他人でも努力をしているだけで評価するような気持ちを持っていきたいと思う。

 

とはいえ、結果なき努力が評価されづらいのも事実だとは思うので、努力とひとくくりにするのではなく、努力の可否についての能力と、質についての能力の二面から評価することで、多角的にものを判断できるようにしたいということでもある。