有馬かな(推しの子)で学ぶ会話の秘密

推しの子という漫画に、有馬かなというキャラがいる。

 

今回必要な要素のみ抜粋すると、

 

・演技がとても上手い

・仕事に恵まれず、周りが大根役者ばかり。そのため、うまい演技をすると全体をぶち壊すため、わざと下手な演技をしている

・本気を出して演技をする機会をようやく得たときは、とても輝いた

 

である。これを基に、普段から「日常会話」「日常チャット」で感じていることについて、まとめてみる。

 

 

よく聞くことで、IQが20以上離れていると会話が成立しないという言説がある。だが、この言説はかなり奇妙に見え、納得のいく言説ではあるものの、なぜ成り立つのか長い間不思議に思っていた。

 

シチュエーションで整理すると、

 

IQ 100 + 100 :成立

IQ 100 + 120 :不成立

 

となり、その場において、100 + 100 > 100 + 120 という不等式が成立してしまうのだ。直感的に違和感があるといっても問題ないだろう。

 

この状況を上手く漫画で表現してくれているのが、冒頭で述べた有馬かなの演技についての状況である。

 

大根役者+大根役者:調和がとれた演技

大根役者+本気の有馬かな:一人で目だつだけ

大根役者+セーブした有馬かな:調和がとれた演技

 

ということである。

 

これを会話に当てはめてみると、

 

IQ 100 + IQ 100 :同等の会話レベルなので違和感なく会話が進む

IQ 100 + IQ 120(自然体) :会話レベルに差があるので不成立

IQ 100 + IQ120(手加減) :同等の会話レベルなので、120側がフラストレーションが溜まるものの会話が進む

 

となり、状況の理解がかなり明快となる

 

また、有馬かなが本気を出すと目を見張るような演技をするということは、会話に例えると、「会話のレベルの高さには限界がない」という当てはめも可能だろう。

 

推しの子に関係なく、かねてより自分は会話というのは大変レベルの高い知的行為であると考えているため、コミュニケーション以外の意味を持つ会話というのは、格式ばった場所を含めても全体の1%以下だろうと予測している。これは、記者会見や国会中継などを含めても不明瞭な論理のまま会話が違和感なく進んでいることから、至った私見である。

 

それについても、日常会話も演技と同等の芸術性が高いものと考えると、

「一定以上の演技力を持つ人の集まりでないと、鑑賞性のある舞台とならない」 = 「一定以上の読解力、論理力、思考力を持つ人の集まりでないと、進展がある議論はできない」

と当てはめることも出来るのではないだろうか。

 

有馬かなの立ち位置や振る舞いは、会話とはどのようなものかを考察するのに適している他に、しばしば漫画である「天才すぎて理解されず、辛い思いをした」というキャラに比べて、「どのように辛い思いをしているかを具体的にしている」という点でよく練られたキャラクターであることが窺える。

 

有馬かなのように、『優れている人が周りのレベルに合わせるためにどのような苦労をしているか』を具体的に説得力のある形で描かれているキャラはそう多くはなく、ましてやそれが物語の中でも大きく扱われているというのは、大変珍しいのではないだろうか。

加えてリアリティーを感じるのが、共演者は有馬かなが手加減していることに気づく気配が全くないことであり、日常会話の 100 + 120 のケースで、120側が手加減していることに気づく100側がほぼいないであろう事との整合性が極めて高いだろう。きっと、自分がフラストレーションを感じていないとき、相手がフラストレーションを実は抱えているかもしれないという想像をする心構えも、大事なのだろう。

 

推しの子の原作者はかぐや様は告らせたいと同一だが、はっきりいってかぐや様の方の天才の描写はかなり薄っぺらく説得力を感じなかったが、推しの子の有馬かなの方は天才の辛さをはっきり書いていて、その分漫画的に推しの子の方が遥かによくできているように自分では感想を持っている。

 

話題を転換し創作の立場にまでいくと、何かを描写したいときに、「それが何をできるか」ではなく「それがどのような苦悩を持つか」を描く方が、リアリティーや内容の重みを持ちやすいのではないだろうか。作者がそれを理解してしないと「りゅうおうのおしごと!」の作者のようになる気もする。

 

推しの子の有馬かなについてはそのように良いキャラクターだとは思っているし、その上復讐をテーマにした漫画であるのに、明るく安心して読める雰囲気も兼ねそろえているので、改めて考えると非常によくできた漫画だと思うことしきりである。