キリキリバッタはなぜ偉い

わたしは最近はゲームプレイ本数が単調減少傾向であるが、これまでにプレイしたゲームの本数がある程度に多い方だとは自負している。

 

ゲーム作りに参加したことはないものの、いろいろゲームをプレイしてしばしば思うのが、「キリキリバッタほど偉大な発明はない」ということである

 

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FC版DQ4 攻略本 下巻知識編より

FC版DQ4(1990年2月11日発売)の第二章から登場する雑魚モンスターである。雑魚モンスターでありながら、このキリキリバッタの存在だけで、DQ4、ひいてはドラゴンクエストシリーズがいかに考えられて作られたものなのかを感じ入ることが出来る、大変に奥深いモンスターである。

 

DQ4がどのようなゲームかというと、1章から4章はほぼほぼ独立したシナリオであり、各章とも初期状態から始まる主人公を操作し、普通のRPGとしてクリアすることが目標。そして、5章になると真の主人公である勇者のもとに1章から4章までの主人公が集結するというものである。

 

さて、キリキリバッタは第二章から登場する。

 

ここで、第一章から第五章までのそれぞれで弱い初期状態の主人公を操作することで、特に何に注意して作る必要があるか、しばし考えてもらってから次の文を見てみてもらいたい。

 

 

 

わたしが考えるに、第一章から第五章までのそれぞれで序盤があるのが、「多すぎる」というのがわかりやすい問題だろう。一般にRPGの序盤はキャラカスタマイズ自由度が低く、ゲーム全体から見てつまらないことが多い。

 

最近の一部のRPGではキャラカスタマイズ自由度が上がると簡単すぎるので、ほどほどに不自由な序盤の方が戦闘が面白いということが発生する。わたしの経験上多くは該当せず、「真女神転生4」が該当したプレイ作品で最新のものだ。これも、序盤がバランスが絶妙で面白すぎるという感想で、序盤を越えた後がつまらないという意味ではない。

自由度が低い序盤の方が製作者側からパズルを投じやすいので、面白いパズルを投げかけて序盤を魅力的にしているゲームは大変に素晴らしいと思える。

 

話を戻そう。DQ4も戦闘にかなり気を使ったゲームではあるのだが、バランスよりもなによりも、“キリキリバッタ”の存在が革命的であるとわたしは考えている。

 

DQ4で序盤を5回もプレイするというのは、5回の序盤をちゃんと楽しめるように作らないと、ゲーム体験は悪くなるだろう。

シナリオや各章のキャラクターの個性などが必要となるのはもちろんとして、ここでキリキリバッタの果たしている役割が大変大きい。

 

DQ4の1章の雑魚モンスターは、おなじみスライムをはじめ、(ボスである大目玉とピサロノ手先を除くと)、15体出現する。

2章はボス除き32体の雑魚モンスターが登場し、32体中大ミミズ、いたずらモグラ、ベビーマジシャンが1章からの続投で、残り29体は初出となる。

2章でスライムに代わり最弱のモンスターとして登場したのが、このキリキリバッタだ。ステータスはスライムより攻撃力を1下げて素早さが代わりに5上がったもので、HPと防御力は同じである。

能力的にスライムとほぼ同等でありながら、キリキリバッタが登場しているのはなぜだろうか。これは、わたしは序盤の連続でプレイヤーが飽きないような工夫の代表として解釈している。

ステータスが大差なくても、見た目、名前、が違うだけで印象は大きく異なり、実質スライムと戦っているようなものであっても、プレイヤーにはそう感じさせない。

 

ここがDQ4の特に素晴らしい所であると考えている。序盤を繰り返させるものの、雑魚敵を一新することでゲーム体験を変えてきているのだ。

 

3章は新規がエレフローパーの1匹だけだが、1章と2章のモンスターのハイブリッドがなされている。

4章に至っては新規雑魚敵が増えているだけでなく、前衛タイプのキャラが最初にいない初めてのドラクエとなっており、決してこれまでの繰り返しという印象を与えないような出来となっている。

 

DQ4は1990年という大昔のゲームであり、複数の主人公で序盤を体験するゲームの先駆けともいうべき存在だと捉えているが、それでいながら、現代で振り返ってもキリキリバッタの価値は色あせることがない。

 

DQ4は512KBという現代のゲーム事情からは考えられない低容量であるのに、その中にキリキリバッタを採用していると。これは、序盤を飽きさせないということがどれだけ大事かを、意識して作っている証左だとも、わたしは捉えている。

 

現代のゲームを遊んでいても、DQ4ほど雑魚戦の飽きを工夫しているゲームはないと思える。

DQ4を雑魚戦の飽きに注目しながら5章までプレイするのは、大変質の使界ゲーム作りの教科書となり得るのではないかと、ゲーム作りに参加したことないわたしも、現代のゲームを遊んでいて思うことが多い。

 

ゲーム作りに関わる人に、改めて教科書としてプレイして欲しいゲームであるとわたしは常日頃から考えている。