ドラえもん映画を全部3回見てからまとめた感想を書こうと予定していたのだが、やたらとSNSでドラえもん映画、特にドラ泣きについての言及を目にしたので、途中までの感想を書いておこうと思う。
まだまだ途中なので最終的には変わる可能性があるが、「ドラえもん」への見方は以前よりは深まったつもりである。
さて、ドラえもんの映画は大きく4つに分けられると思う
第一期: 藤子先生存命期
第二期:藤子先生没後の旧ドラ期
第三期:新ドラの奇跡の島まで
第四期:ひみつ道具博物館から今まで
これまでクソ映画会合では主に第三期を鑑賞している。
ひみつ道具博物館が、新ドラの映画はこうあるべきという提示が初めてなされたといえる傑作だったので、それを機に第四期としている。
今回の記事の要点を述べると、第一期と第二期以降では当然ながらドラえもん映画の面白さが変質していると考えている。藤子先生の没後に先生の面白さを再現できていないと感じたという、当然の感想でもある。
わたしは幸いにしてクソ映画会合を実施してあったおかげで、第一期のドラえもんを改めて見ることで、「今まで感じていたドラえもん映画の面白さの言語化」をなんとかすることが出来た。今回はこれがメインテーマである。
さて、ドラえもんの面白さとはどのようなものが思い浮かばれるのだろうか。恐らく、映画の面白さとして聞くと、
・自然破壊への警鐘
・映画オリジナルのキャラクターとの交流
・テレビ版より規模の大きい世界観
・のび太がかっこいい
・どら泣き
といったあたりが多く回答されるのではないかと予想している。しかし、わたしはこれれらはいずれもドラえもんの面白さを構成するものであっても、代表するものではないと考えている。
わたしが考えるドラえもんの面白さとは、
・好奇心をくすぐる科学的、歴史的な説明
・日常から一歩踏み外れたようなホラー感(どくさいスイッチのイメージ)
である。
典型的なものは旧魔界大冒険やドラビアンナイトではないかと思う。特にドラビアンナイトは構成として完璧だと今は思えているので、以上に注視してぜひ鑑賞して欲しい映画である。
この2つがドラえもんの面白さを支えていたものであったと仮説を立てて没後のドラえもんを見なおしてみると、第二期以降のドラえもんもなかなか興味深いものになった。
はっきりいうと、第一期ではたびたび顔を出していた上記の要素が、第二期以降では非常に薄くなっている。
恐らくだが、藤子先生がやっていた科学的要素とホラー要素の表現というのは、先生にしかできない神業であったのではなかろうか。
緑の巨人伝もそう思って見直すと、ドラえもんのホラー要素の表現をしようとして失敗した作品と捉えることが出来て、チャレンジさえしていないその他の作品よりは好意的な感想にさえ至ってしまった。
そんなこんなで、第二期・第三期のドラえもん映画は、藤子先生のドラえもんの面白さを表現しようとして迷走している感がとても強いというのが現在の感想である。
かなり終末感を観ながら覚えていたのだが、第四期のひみつ道具博物館と南極カチコチ大冒険では、旧ドラとは違う路線の面白さの表現が割り切って出来ていて、ドラえもん映画も終わったわけではないと思うことが出来た。
さて、新ドラの旧ドラとは違う割り切った面白さとは、わたしは
・明るい冒険、明るい展開
・ドラ泣き
の2点だと考えている。
ひみつ道具博物館も南極カチコチも終始明るい話で、たまにあるピンチもドラ泣きのためのスパイスでしかなかった。
が、そもそも第一期のホラー要素を再現するのが無理だとあきらめて、明るい面白さを追究するのは、できること・できないこと・やるべきことが全て認識されている、新ドラ映画の作り方として素晴らしいものなのではないかと思えた。
ドラ泣きについても、ドラえもん映画をまとめてみるまでは「最近の映画はドラ泣きを推しすぎている。本来のドラえもんの要素でドラ泣きはほんの一部」と思っていた。が、第二期以降の迷走っぷりを経てドラ泣きに至ったのを見ると、「藤子先生のドラえもんの面白さの再現が不可能だったから、『ドラ泣きを作るしかなかった』」と納得することが出来た。
まとめるとわたしの中での今のドラえもん映画観は
「旧ドラえもんの面白さの本質はホラーサイエンスで、新ドラはそれを再現しようとして駄作を量産し、無理だと悟って独自路線の開拓が成功しつつある」
である。駄作もかなりの割合で混じり続けているが、試行錯誤の末に独自路線を歩んでいることは感じ取れたので、一概に非難できるものではないと思っている。
また、わたしの視聴回数が足りないので感想が二転三転する可能性も高い。
全部最低3回みてからまとめた記事を書きたいので、しばらくのお待ちを願う。