アニメや漫画の考察が憲法解釈と同じだと気付いた話

背景はちょっと前の書評記事

 

atmark680.hatenablog.com

 

書いてあることをそのまま解釈するという立場で文章を読む際、特にあらゆる解釈の前提となる憲法においては、

 

憲法が学問における公理系とみなす

 ・公理系に対して無矛盾となる解釈を与えるのが憲法解釈のやり方

 

というのが、前回読んだ本の大まかな方針である。

 

わたし自身も、数学だけでなく憲法の解釈において、公理系が存在するという立場をとることで、感情を排した論理的な解釈や論理展開を行うという方針が気に入ったので読んでいた。

 

で、最近気づいたのだが、このやり方はアニメや漫画の考察だと日常的に行われていることである。

 

例えば、考察が盛んなもので、エヴァを挙げてみようこの場合、

 

公理系:エヴァのアニメ、設定資料集。インタビューなどの公式情報

 

が与えられている。しかし、日本国憲法と同様にそのまま素直に解釈したら矛盾するようなものであったり、時系列や描写が飛ぶことで中間に対して消費者側が補完を行う必要があるところがある

 

 

・赤城ナオコがクローンが大量にいると知っている幼綾波を殺して自殺するのはおかしくないか?

ジオフロントにいるのがリリスだったら、アダムってなんなんだ?

・零号機の魂は誰の魂なんだ?

 

といったあたりである。

 

そして、こういった疑問に対して、「公理系」である公式情報と矛盾しない説明を与えるのが、アニメや漫画のいわゆる「考察」であるといってよいと私はとらえている。

 

わたしはこれまで、過度な考察に対して、原作者はそこまで考えていないからやる意味ないんじゃないかという立場も取っていたが、今回の気づきでその立場は改めることにした。

 

原作者が言及していない内容に対して、公理系と矛盾しない解釈を与えることこそが「考察」だと気付けたので、原作者が言及していないから意味がないという指摘自体がナンセンスだからである。

 

推測だが同様に法律の解釈も、無矛盾な解釈を構成したところで、法律の作成者たちの想定を超えた解釈となることもあるだろう。しかし、それで全く問題がないということも今回得られた学びである。

 

まとめると、アニメや漫画の考察も、憲法解釈も、公理系を公理系であると尊重するものであり、公理系が公理系であるための取り組みを行うという点で全く同じと気づいたということである。そして、双方とも公理系が公理系としての権威を維持できるための行動をしているともいえ、オリジナルを尊重したいと思う気持ちがないと行えないことであるとも、改めて思えた。

 

ねがわくば、「公理系を尊重し公理系が無矛盾であるような意味づけを構成する」という行動について、何かしらの簡単な動詞が欲しいと思うところである。わたしは考察、解釈などより丁度いい表現がありそうだと思いつつ、アイデアが何も生まれないのが残念である。